我らが古賀太陽が1つの節目を迎えた。
今回は「マイルストーン」なんて言ってみようか。
古賀が迎えたのは「J1リーグ200試合出場」というマイルストーンだ。
記録的には「上を見たらキリがない」、そんな分野の記録であるし、J2リーグやカップ戦を含めるとなれば、この数字はもっと増えていく。
確か、「100試合出場」のセレモニーは2022年7月。年間38試合を戦うJ1リーグの性質上、「3年間試合に出ていれば…」という計算は成り立つ。
だが、そこは「…いや、待て」と。
移ろいの早いサッカー界において、3年間に渡り、試合に出続けること、出続けてみせた選手となると、そうは多くない。

かく言う、私もこのあたりの記録関連には疎い質の記者。花束贈呈のセレモニーを見て初めて「すごいな」なんて思ってきた。もう、全部言ってしまえば、今回の「古賀太陽200」に関しても、古賀に昔から声援を送る方々からの問い合わせがあって、気づかされた。
早速、練習後の古賀を呼び止めた。
「…『200試合』、あー、はい」
スパイクについた芝を落としながら現れた古賀は特にピンときていないくらい冷静だった。でも、その後に語った気持ちはこうだった。
「やっぱり『苦しい時間』や『きつい時間』が長かった。その時間をたくさん経験してきたからこそ、味わえる喜びのようなものたちは噛み締めながらやってきたつもりではあります。『すごく気持ち良く評価することができる200試合』ではないかもしれませんけど、自分がここまで歩んできたキャリアに大きな間違いはなかったですし、この『200試合』には自信を持っていられる。今までの苦しい思いがたくさんある分…この次が『300』といった数字になるのか分かりませんけど、もっともっと『喜ぶ回数』を増やせていけたらいいなと」

そんな気持ちを受け取った際、「100に迫るか、超えたくらいの頃は一番きつかったかな」と古賀は話した。
キャプテンを「任された」くらいの頃か。苦しむチームの背負い方も試行錯誤。言わずもがなな、「流行病」もあった。喝采なきガラッガラのスタンドで試合のスケジュールをこなした、あの頃。聞こえないはずの声援がため息混じりで向かって来て、古賀の鼓膜を振動させた、あの頃か。
だから、古賀は頻繁にこれらの言葉を用いるのだと私はそう思っている。
「喜ぶ回数を増やせたら」
「みなさんが喜ぶ顔を見て」
「みんなで喜びたい」
「みなさんをまた喜ばせたい」
私たちメディアにとってはチームを代表する「スポークスマン」であるし、腕章を巻く立場や機会がそう言わす部分はある。私たちが「言わせる」場合もなくはないが、「聞かされている」のかもしれない。それは分からないが、どちらにしても本心であろう。

「家族もそうですし、チームのスタッフやレイソルサポーターのみなさんにはきつい時も励ましていたたいたり、声援をいただきながらやってこられたので」
私たちが今後の人生で感じられるのかも分からない境地を知る選手からの言葉というのはどんなにシンプルでも…いや、シンプルなほど良い。「重み」というよりも「信用」に近い、真実性が内包されている。
だから、古賀が持つ「喜ぶ回数を増やせたら」という気持ちはかなり「ありがたい」。その域だ。
今回は同じように3桁の出場試合キャリアを持ち、言葉の真実性を持つ選手に「古賀太陽200」についてマイクを向けた。
戸嶋祥郎だ。
200試合出場に迫ろうかという自身のキャリアを一度傍らに置き、「自分に言えることなんてないですよ」とリスペクトを示した戸嶋だが、すぐにこんな話をしてくれた。結構、言ってくれた。

「自分がレイソルへ加入した頃の太陽は22歳か23歳で、既にキャプテンをしていたり、リーダーの1人となっていましたけど、チームを引っ張っていく姿勢は特に成長していると思いますね…自分が言うのもおこがましいんですけどね(笑)。『大きい声で』というよりは『背中で示す』タイプの選手であることは彼の良さ。苦しい時期もありましたけど、今年はチームと共に『花開いているな』と思いながらいつも見ています。彼の『いちファン』として、『柏レイソルに関わる者』の1人として、太陽の笑顔が増えること、良い時を過ごしてくれているのはうれしいです」
私が何を書き連ねようと全く歯が立たないほどの気持ちを素顔で話してくれた。まさに「全部言われた」気分だった。
この戸嶋の出場試合数を捉えつつあるのはエース細谷真大。彼も3桁の出場試合キャリアを持つ。そういえば、細谷に他人のことを話してもらったこととなると案外少ないような気がしていた。思いつくのは田村蒼生(湘南)や関根大輝(ランス)についてくらいか。
「200試合?それは…J1?すごい。素直に『すごいな』って思います。後輩の自分からしたら、もうずっとケガなどもせずにプレーをしていて、自分がトップに上がる前からずっと試合に出ていて、それを今も続けている存在ですから、自分の中にあるのは『尊敬』の気持ちです」

ゴールを決めて、歓喜の輪を離れた細谷を満面の笑みの古賀が祝福するシーンは日立台のメインディッシュ。キャラクターやポジション、世代は違えど、同じ学び舎を経てプロの世界で活躍する2人。細谷は古賀をどう見ている?
「もちろん、自分を含む、レイソルアカデミー出身の選手たちからしたら、『最高のお手本』であることは間違いありませんし、太陽くんの人間性を含めてというか…まず、とても『いいひと』ですし、自分にとっては、いつもゴールを喜んでくれる人ですし、後ろでガチっと守ってくれている頼りになる存在です」
そして、最後に「尊敬しています」と結んだ。だそうだ。
もうずいぶんと前から古賀を「アイドルの1人」と語り、古賀に「自分の『推し』ですから」と言わせて久しい田中隼人はミナトSC時代の小学5年生の頃に初めて古賀を見たという。

「最初に見た太陽くんは『あの有名な人か…』って感じでしたね。『4番・キャプテン・両利き・めちゃ上手い』って見ていた記憶がありますね。自分にとっては『アカデミーに加入する前から見ていた選手』ですし、太陽くんがプロデビューしたガンバ大阪戦も自分は日立台のスタンドで観戦していましたしね!」
どこかマウントを取らんばかりのその語気はだいぶ微笑ましかったのだが、その語気がさらに強くなっていったのは以下の話題である。今でこそ、「アイドルの1人」であり、「目標の1つ」であった偉大な先輩と並んで戦う機会は増えた。少し前は目障りでは無いにせよ、明らかに「キャリアの障害物」でもあった…そんなアングルから。
「今までは『絶対に参考や真似できるところがある』って見つめていましたけど、今はさらにパフォーマンスのレベルが上がっている。今のポジションは『プレー的にも、能力的にも、太陽くんにしか務まらない』と感じさせる。今はその姿を間近で見させてもらっていて、『なんでW杯最終予選の日本代表にいないんだ?』と心から思いますし、『Jリーグで1番のCB』だって思っています。今の自分の立場からしたら、『もう、自分の参考になんてならないレベルの選手になってしまった太陽くん』なんですけどね(笑)。『ケガをしない』、『パフォーマンスが全く落ちない』…そして、『鉄人』です」
古賀の話をしている間はずっと笑顔だったことも残しておこう。まるでファンのオフ会だった。また、「な?隼人、出所不明の高評価を受けて異国へ渡らずにレイソルへ帰ってプレーしてよかっただろ?」という気分だったことも忘れずに。
田中が発したワードは戸嶋からもあった。
「太陽という選手は決して『目立つタイプの選手』ではないかもしれない。でも、『分かる人には分かる選手』ですし、『チームメイトから信頼される選手』です。どんな試合でも、『古賀太陽がいれば…』って。そこをまた極めてもらって。日本代表だって近い選手ですしね、あるでしょ?そろそろ。『柏レイソルから代表を背負う選手』になって欲しいですよね」
それぞれの「ゆかり」を探しながらマイクを向けた取材をしながら、「すごい」や「おめでとう」と並ぶ気持ちをストレートに表現したのはモハマド・ファルザン佐名だ。
「200か、なんだろ…すごい…うれしいですね!自分の中では、『すごい』という気持ちより『うれしい!』って気持ちが強いですね」

古賀とモハマドの「ゆかり」となると、「千葉県浦安市」というゆかりがある。
「太陽くんは昔から変わらない優しさで接してくれる浦安の先輩。前にも話したことがありますけど、昔は小学生の自分を連れて柏から同じ浦安まで帰ってくれたりしてくれた。どんなに素晴らしい選手になっても、あの頃から全く変わらない先輩でありながら、『太陽くんがいなければ、このチームは成り立たない』…これはみんなが思っているはず。そんな『絶対的な選手』です『レイソルの象徴』だと思っています」
古賀の「変わらない優しさ」は多くの人たちが共感するところ。その人間性にも憧れるモハマドだったが、1人のアタッカーとしては「太陽くんと対峙すると、『すぐに体を入れられて何もさせてもらえないDF』で、プレスに行っても、技術で剥がされてしまう」存在でもあるという。
そんなモハマドの感覚から古賀の凄みを改めて再確認したが、古賀に冷や汗をかかす日を楽しみにしている。奇しくも古賀もモハマドを「ファルは『すごい面白い存在』だと思っていますよ」と見つめていたこともここに残しておこう。これから毎日、1対1を仕掛けよう。
そして、また最後に。
「自分の中には『本当におめでとうございます』の気持ちと『参考にさせてください』という気持ちと『めちゃくちゃうれしいです』って気持ちがあります」
顔をしかめながら、切ればいいのに頑なにキープする前髪を斜めにかきあげながら積んできた経験値は実にユニーク。「100を越えたあたりからはぶっ通しだった」と古賀も笑っていたが、「使い続けてくれた監督たちにも感謝をしています。明らかに実力や結果が伴っていなかったり、追いついていない時期にも起用を続けてくれましたから」と右SBでスタートしたキャリアを回想し、未来を見据えた。
「右SBでデビューをして、左右のSBをやって、たまにCB。3CBでも左右を経験して、4バックの左CB。今は初めて3CBの真ん中…本当にポジションを転々としてきましたね(笑)。色々な経験をさせてもらっていますし、これからもたくさんの経験をしたいですし、楽しみながら、自分の『幅』を広げて、どのポジションでも同じ価値や存在感を放てるような選手になれたら。それこそ『代表』のような場所へも、どんなポジションでも選ばれるような」
その後、同世代の菅大輝(広島)や立田悠悟(岡山)の名を挙げながら、「速いのか遅いのか分からない。自分はまだまだです」とするあたりも古賀らしい。
「菅はそれこそずっと出ているじゃないですか。彼は『300』に迫っているのかも。悠悟はずっとJ1でプレーを続けながらでもある。レイソルに来た時は悠悟の方が数は多かったくらいだし。本当に我慢して使ってくれたクラブには感謝しなくちゃいけないです。あまり体に変調が起きないことが自分の一番良いところかなって思います(笑)。あと、もしかしたら、『試合出場数』よりも、『プレータイム』だったら、結構すごいんじゃないかなって思います。交代出場とかはほぼ無いし、『数分出て、1試合』って稼いできたわけじゃないですし、そこには自信があるかな」
そんな男の「J1リーグ200試合目」は「太陽なのに雨」だったし、カッコよくは決まらなかったけど、語弊を恐れずに言うと、「どこか彼らしい」と思わせてくれるのもまた不思議な魅力でもある。当日も相変わらず数多くのマイクと向き合う「スポークスマン」の業務をこなしていた中で、「またここからですね」と気持ちを新たにしていた。
そして、また、この「スポークスマン」としての働きにこそ、古賀が培ってきたものが詰まっている。この業界で「言語化」と言われることが多い、「競技的な言及」に関してはもとより、「1つ踏み込んだ感情」についての言及に古賀最大の魅力が詰まっていると私は思う。それはもうかれこれ数年間。
ある時は若き後輩のゆく道を遮ろうとするノイズに対して。
「見ている側はどうしても『戦犯』を作り出したがる。自分もその『餌食』になったことが何回もあるから(笑)、『そういうものだ』ということに尽きる。世間や外野が思っている以上に、近くにいるチームメイトたちって、そんなことを思ってはいないので、『そういう人たちの意見を一番大事にした方がいいよ』とは思います。あまり考え過ぎてはいけない。どんなことがあっても、隼人は自分の『推し』なんで、彼は『誰もが持っていないものを持っている選手』ですから」
また、ある時は私たちの記憶を、感情を、希望をさらっとモチベートしてみせる。
「国立競技場は個人的にも『2戦2敗の地』。どちらも『ギリギリのところで逃した』感触かあって、今日も特別な思いも入った状態で臨んでいたし、サポーターのみなさんも同じ気持ちだったはず。勝ちを届けられず、すごく申し訳ないですけど…ただ、今季、『このスタジアムで試合ができるチャンス』というのはまだ残っているわけで。このチームでまた大舞台に戻って来ることはできるはず。今日は悔しい結果になってしまいましたが、『次』こそはみなさんの期待を裏切らない形でここを去れるように」

私はあと200試合見たいと思っている。なんでもいいからまた話したいと思っている。日の丸やトロフィーが似合う男にもなって欲しいと思っている。もう誰も「柏の4番」を着ることかできないほどの足跡を残して欲しいと思っている。今はそのプロセスを見ている。そう見ている。
(写真・文=神宮克典)