Vol.21 松戸市立第五中学校出身 高嶌凌也(たかしまりょうや)さん
小学生の時にクラスのマラソン大会で上位に入ったことがきっかけで陸上競技を始めた高嶌さん。
◆第65回、66回、67回東葛駅伝(10区、4区、4区)出走
「初めての東葛駅伝は、最終区の10区ということで少し緊張しました。持ちタイムは1500mで5分を切る程度で1区に次ぐ長い区間を任され、私の走り次第でチームの順位が決まるので不安もありましたが、最終的には楽しく走れました。3年時は、力もついて多くの選手を抜くことができ、駅伝の楽しさを実感できました。東葛駅伝は大通りを封鎖し、たくさんの応援を受けて走る特別感の中、襷を繋ぐ駅伝というスポーツに多くの中学生が関われるのが大きな魅力です。長年、千葉県の長距離が強い理由は、東葛駅伝を経験後に陸上競技に興味を持つ選手が多いからだと考えます」

◆陸上競技人生を変えた恩師との出会い
「小学生ながら箱根駅伝を走りたいとは思っていたのですが、当時は子どもの夢程度で本気で走れるとは考えていませんでした。中学入学後に蓑津潤先生や山本智央先生と出会い、自己ベストを更新していく中でこのまま速くなっていけば、本当に箱根駅伝を走れるかもしれないと思うようになりました」

蓑津先生からは体操や動き作りなども教えてもらい、そこで身についた基礎が高校や大学でも大きな故障なく走れた要因だという。
「山本先生には私が主将となった後に陸上部全体の相談をしました。先生方が練習メニューを考えるだけでなく、時には生徒自身が考える機会も多くくださり、中学生ながら自分にはどんな練習が足りないのかを考えながら部活に取り組めていたと思います」

東葛駅伝を3年連続で走ったこともそうだが、中学時代のいちばんの思い出は、1年冬の松戸市七草マラソン優勝だという。「当時は漠然と目指していた箱根駅伝が明確な目標となったきっかけの大会です」
◆恩師の紹介で日本体育大学柏高等学校へ進学
中学3年時は県通信大会3000mで決勝進出するなど順調にタイムを伸ばしたが、高校から声はかからなかった。進路に迷っていたところ、蓑津先生から日体大柏高校を紹介され、進学を決めた。

「高校時代の思い出は高校3年時の関東高校駅伝です。県高校駅伝は2位で全国高校駅伝に進出できなかったのと高校では区間賞がなかったので、長距離区間は後輩に託し、私は6区(5km)を走りました。狙い通りの区間賞を獲得できてうれしかったです」

◆歴代の先輩が活躍していた國學院大へ進学
近年は毎年のように日体大柏の先輩が國學院大に入学し競技を続けていたこと、長い距離を走り込むチームの練習方針が自分に合っていると感じ、國學院大へ進学。
「大学2年時に箱根駅伝の登録メンバーに入れず12月の松戸市記録会10000mに出場した時、地元の方々や蓑津先生と会話し居心地はよかったですが、そんな考えでは4年間がそのまま終わり、箱根駅伝を走って恩返しができないと危機感を覚えました。大学3年になってからは距離を踏みハーフマラソンで結果を残し、Aチームに入るのは当然のことと思うようになりました」


◆大学3年時に箱根駅伝の登録メンバー入りも直前の変更で出走ならず
「大学3年時は箱根駅伝登録メンバー入り後に練習で外すことはありませんでしたが、失敗を恐れ、設定タイムギリギリで走るなどアピールではなく守りに入っていました。区間エントリー時点では10区を走る可能性は高かったと思います。最後の大事な練習を外さなかったのが私と1学年下の殿地琢朗さんで、調子をキープしていた私と最後の練習で不調から一気に状態を上げた彼との二択でした。大晦日に前田康弘監督から呼ばれ、部屋に入った段階ですでに涙目になっている監督を見て、私は走らないなと察しました。交代を告げられた時は悔しさなどよりも、『選手のために泣けるほど熱い思いを持って見てくれていたのか。監督も大変なんだな』と他人事のように考えていました」
なかなか気持ちは切り替えられず悔しさ半分、納得半分で迎えた当日の朝、復路組全員の体調が問題ないことを確認後、10区の応援に行った。
「10区を快走する殿地さんを見て、『もし私が走っていたらこの走りができたのか。初の総合3位に導く走りまではできなかっただろうな』と思いました。殿地さんが終えた後は『お疲れ様』と一言だけ声をかけました。彼もたくさんのものを背負い、これ以上ない走りをしてくれたので、私から言うことは他に何もなかったです。今思えば3年時で箱根駅伝を走っていたらそこで満足し、4年目で気を抜いてしまったと思います。走れなかったからこそ4年目でしっかり陸上と向き合えましたし、殿地さんの走りを見て、自身の考え方や取り組みがまだまだ甘いと実感しました。4年目の練習は、最終学年として覚悟の走りを示せたと思っています。幸い体は頑丈で故障する気配はなく、練習は年間を通して積めていました。11月になってもなかなか状態は上がりませんでしたが、箱根駅伝前にどれだけ調子を上げられるかを考えて1年を過ごしました」
◆最初で最後の箱根駅伝は9区を出走
「2年連続で箱根駅伝登録メンバーに入れましたが、その段階での私は序列が低く、走る可能性は低かったです。年末までの練習を設定以上のタイムでこなしアピールする中で、10区だけでなく9区も頭に入れるよう監督から話があり、期待されていると感じました。それでも走る可能性は五分五分くらいと思っていましたが、大晦日に監督から前年同様に呼ばれ、正式に9区を走ることを伝えられました。これで今までお世話になった方々へやっと恩返しができると安堵感が大きかったです」

当日は、走る前も走っている時も緊張やプレッシャーはそれほどでもなく、この23kmで陸上競技人生が終わるのかと寂しい気持ちと、シード権だけは置き土産として残したい思いがあった。突然の腹痛もあり、ペースが上がらない中、後ろから明大の富田峻平さんが猛追してきていることは運営管理車からの監督の声かけでわかった。
「1度追いついてもらい、一緒に前の東京国際大も含めた9位集団で襷を渡せれば、後輩の10区の主将が決めてくれると考えていました。追いつかれるのが思っていたより遅かったのと、追いつかれた時にペースがあまり速く感じず、これでは前に追いつけないと判断し、自分から前に出ました。単独走の11位になることだけは避けたかったので、結果的に良い判断ができたと思います。富田さんが松戸市出身だということは走った後で知りました。2年後に彼が1区で区間賞の走りを見て、凄い選手と一緒に箱根路を走っていたと思うと今ではいい思い出です。コロナ下での開催でしたが、実際には絶え間なく応援があり、これが通常開催だったらどれだけの盛り上がりだったのだろうと少しもったいなく思いました」
◆今後の目標はフルマラソンで3時間切り
「大学卒業後は、陸上競技から完全に離れて物流会社で事務業務をこなしていますが、毎年会社のイベント関係でハーフマラソンを走る機会があり、レースの3ヶ月くらい前から休日にランニングをしています。せっかく大学まで競技を続けていたので、可能な範囲でランニングを継続し、いつかマラソン3時間を切りたいです」

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