柏市立豊四季中学校出身 高島大空さん

小学校4年生の時、休日のたびに父から「走りに行くぞ」と声をかけられ断ることができずに走らざるを得なかった高島さん。同学年ではランニングクラブに所属している人以外で休日に10kmもランニングする人は少なく、次第に他の子よりも長距離が速くなっていった。小学校6年生の時は、学校の代表として駅伝のメンバーにも選ばれた。その時に今まで何をやっても平凡だった自分が初めて武器を手にしたような感覚でとても嬉しかったと言う。中学の部活動に入るタイミングで自分の意思で、陸上部の長距離に入り、本格的に始めた。

◆第69回から3年連続(5区、2区、1区)で出走

「1年目はとにかく緊張していたのを覚えています。2年、3年が中心で1年から選ばれたのは私1人でした。『失敗したらどうしよう。足を引っ張ったらどうしよう』とばかり思っていました。一方で、東葛駅伝が学校全体行事だったこと、1年は私だけだったこともあり、たくさんの人が応援してくれていてとても嬉しかったです」

17位で受けて14位で6区へつないだ。1年時に沿道まで応援に来てくれていた仲間が、後に箱根駅伝にも来てくれてとても嬉しかった。2年目の東葛駅伝は、1年目ほど緊張はしなかったことと1学年上にエースがいて、重圧もそれほどなかったからか、正直あまり印象に残っていない。3年目の東葛駅伝は1区を走る重圧もあり、1年目とは違った緊張があった。東葛駅伝で10位以内になりたいという思いが1年目の頃から自然とあった。振り返って見ると1年目は強い先輩方が多く、3年目はそのチーム状況と似たような戦力を揃えられていたこともあり、10位入賞したいという思いが強かった。その中での1区は、「10位以内を取れる可能性がある順位で渡さないと」という重圧を感じていた。

「東葛駅伝は、あの大きい道路を中学生が走ることができることに興奮していました。父が陸上をやっていたことと、はとこも箱根駅伝を走っていたこともあり、物心着いた時からテレビでは箱根駅伝が映っていました。大きい道路を走っているのを見て、『凄いな』と小さい頃から思っていて、似たような道を走れることが嬉しかったです。中学時代の一番の思い出も東葛駅伝です。東葛駅伝に向けて、陸上の長距離だけでなく、他部活のメンバーも集まってくれます。学年関係なく今まで接点が少なかった人とも交流ができ、すごく楽しかったです。1年目は3年生の先輩が怖く見えましたが、すごく良くしてくださり、今でもSNSでは繋がっています。そういった縁もあることを考えると貴重な経験ができました。襷を繋ぐという責任感を感じられる。仲間と目標を掲げて同じ方向に走ることができる。駅伝の楽しさ、魅力を中学で感じられるということが東葛駅伝の良さで、駅伝はすごく楽しいものだということを知ることができました」

◆強い仲間とともに流経大柏高校へ進学

中学2年時までは、陸上を優先ではなく、勉強を頑張り公立高校への進学を考えていた。3年に上がるときに父から「陸上を本気で頑張りたいなら私立でも公立でもいい。その代わり高いレベルで頑張れる高校を選んだ方がいい」と言ってもらった。迷っていた時に、父の高校時代の先輩が流経大柏の菅原和幸先生とつながりがあり、その縁もあって菅原先生とコーチの徳永孝太さんから声をかけてもらえた。練習会に参加すると練習そのものはきつくても楽しく取り組んでいる雰囲気がよかった。凄く惹かれていた一方で、練習会には野島健太さん、悠太さん、親里海輝さん、佐藤俊介さんと東葛地区では有名な選手がいて、彼らは流経大柏に決めているという話も聞いていた。そんな強者揃いのメンバーの中で自分は駅伝メンバーに入れるかという気持ちもあったが、父から「高いレベルの中でやることも大切だ」と言われたことを思い出し、菅原先生、徳永さんから声掛けしていただいたこともあり、流経大柏への進学を決めた。

◆山あり谷ありの高校時代

入学早々に練習量に身体が追いつかず故障続きでレースにほとんど出られなかった。秋から徐々に練習を積めるようになりレースにも出場でき、走るごとにほぼ自己記録を更新できていた。

「今でも鮮明に覚えているのが、11月に5000mで15分16秒を出した時、徳永さんに、『これが今の精一杯なので練習を積んで2年目の春の記録会で14分台を狙います』と話したところ、徳永さんから『3000mを8分台でまだ通過できていないのに翌春に1発で14分台を出せるわけがない。12月の記録会でタイムは悪くてもいいから、3000mを8分台で通過してみなさい』と言われて、強い目的を持って臨みました。その記録会で14分59秒とギリギリでしたが、14分台を出せました。当時の1年生で14分台の選手は少なく、今までトップレベルの選手になれたことがなかったので、そのレベルに近付けた気になり、嬉しかったのを覚えています」

1年目に5000mで14分台を出してこれからいけるぞと思っていたところから故障して練習が積めなくなった。練習をしても結果を出せないどころか、16分以上かかることもあり、どうしていいかわからなくなった。大学でも競技を続けたい思いはあったが、声がかからなかった時は陸上での進学を諦め、退部して勉強に専念することを考えた時期もあった。そんな時に菅原先生、徳永さん、同期のメンバーが救ってくれた。

「菅原先生や徳永さんはどんなに私が沈んだ時でも『大空ならできる』と声をかけ続けて、私に可能性を見出してくれました。コロナ禍に入ったこともあり、授業もなかった時期に徳永さんは様々なところに連れて行ってくださり、いろんな環境で練習して、刺激を得られたのが大きかったです。同期のメンバーも、特に健太と悠太は気にかけてくれて、調子が上がらない時でも『都大路に行くには絶対に大空の力は必要だから一緒に頑張ろう』と言ってくれました。先生、コーチ、仲間に助けられたり、授業がない期間は、食事に気をつけて体作りをしたり、練習の量を増やしつつ、ケアの時間も増やすこともでき、自分自身に向き合える時間が多くなりました。競技人生でいちばん苦しい年でしたが、その経験が今につながっていると思います」

3年目の県高校駅伝は本気で都大路を目指していた。高校3年目までの人生でいちばんに頑張ったと言えるくらいに県高校駅伝に勝つことを本気で取り組んだ。

「かなり高いレベルで練習をこなせていて、メンバーの持ちタイムも申し分ないものを揃えていました。その中の4位でした。こんなに悔しいレースはなかったですが、ここにかけてきたからこそ、高いレベルで練習に取り組めたので、最後の県高校駅伝は思い出に残っています」

◆最後の記録会でチャンスをもらった帝京大へ進学

当初、声をかけてくれた大学で競技を続ける予定だったが、高校2年時からのケガや不調が響いたからか、その話がなくなってしまった。路頭に迷って時、帝京大の中野孝行監督が菅原先生と繋がりがあり、7月の記録会で5000mを走ることになった。

「記録会の結果が帝京大に行く最後のチャンスとなりました。その記録会で一年生ぶりに自己ベストを更新し、帝京大に行くことが決まりました。『育成の帝京』と言われる帝京大は私に合っていると感じていたので、そこで進学を決めました」

◆大学3年時に箱根駅伝7区にエントリーも当日変更で出走ならず

12月の下旬のタイムトライアルで最終的なメンバーが決まるが、出走メンバーを勝ち取ることができず、その時点で箱根駅伝を出走できないことはわかっていた。箱根駅伝の区間エントリーを発表する前に中野監督から「7区のリザーブとして入れるから最後まで準備するように」と伝えられて、何が起こってもいいように準備を進めていたが、予定通り当日変更で走れなかった。

「区間エントリーで7区と公表され、応援メッセージをたくさんもらいました。当日変更はチームの戦略でもあり、情報が漏れることを防ぐために走るか走らないかは伝えられませんでした。応援してもらってもどんな回答をすればいいかわからず、反応できなかったのがもどかしかったです」

◆何度も諦めかけたが諦めきれなかった1年間

4年目は夏まで就職活動や教育実習など、練習もほぼ消化できない中でレースの結果は散々だった。夏合宿は、監督から「きっかけをつかめ」と配慮してもらい、選抜合宿のメンバーと練習をした。そこから調子を上げることができ、それ以降は駅伝メンバーと同じ練習を消化できた。出雲駅伝、全日本大学駅伝は、実績がなかったため、出走できず、箱根駅伝前の最後の選考レースとなる上尾ハーフマラソンは重要なレースとなった。

「周りのメンバーのレベルが高く、上尾ハーフマラソンは、タイムだけではなくチーム内で上位に入らないといけないと考えていました。強い思いを持って臨んだものの、思うような走りができず、箱根駅伝に出走してチーム目標に貢献することは難しいと考えましたが、ここまでお金も時間も労力もすべてをかけて支えてくれた家族にこんなかたちで腐って終えるのは申し訳ないと思いました。レース後は、トレーナーに相談し、時間をいただき、『理想の走りに向けて何ができていないか、箱根までの間にどこまで改善できるか』を話し合い、取り組みました。そのおかげで1月に向けて徐々に調子を上げることができました」

◆最後の最後につかんだ箱根駅伝で8区を出走

箱根駅伝を走ることが決まったのは12月下旬のタイムトライアルで、本当にそこまでは手応えがなかった。8区の出走が決まった時、監督に言われたのは「いい加減覚悟を決めろ」だった。それまで自信を持てていなく、関東インカレのハーフマラソンに選ばれた時も「他の選手の方が戦えます」と言うくらいに自信を持てなかった私にスイッチを入れてもらった。

「出走が決まってから調子が良かったといえ、目を瞑ると考えられないくらいいい走りをしている場面か撃沈している場面の両極端の姿しか想像できず、興奮と緊張でなかなか寝付けず睡眠誘発剤を飲んで寝ていました。当日のコンディションはこれまでにない、最高の状態でした。自分でもどんな走りができるだろうと楽しみな気持ちで臨めるくらいに調子が良かったです。同時に緊張も凄かったです。人生でいちばん緊張しました。襷をもらう順位もシード権争いであったため、シード権をとれるかと考えることが多かったです。と同時に緊張を上回る喜びもありました。物心ついた頃からテレビで見ていた箱根駅伝を今、走っている。こんな景色なのか、これが箱根駅伝なのか、という思いで一歩一歩をかみしめました。中野監督と菅原先生から『箱根駅伝は自分の息が聞こえないくらい声援がすごい』と聞いていましたが、それを実感できたのも感慨深かったです。終盤に遊行寺のポイントで東洋大の選手に離されてしまいましたが、9区は同期の力のある小林大晟で『30秒以内ならどうにかしてくれる。彼の負担を最小限にしよう』と思い、最後まで諦めずに走りました。走り終わった直後は、まず純粋に楽しかったです。箱根駅伝は、私の競技人生の引退レースで、いろんなものを我慢してきたことももう終わりだ、という解放的な気持ちと、すべてをかけて目指してきたものが終わってしまった喪失感が入り混じったような気持ちでした。本当に夢のような時間だったというのが率直な感想です」

◆出会いに恵まれた高校生活と大学生活

「流経大柏の菅原先生がよく大事にしている言葉に『縁を大切に』、『出会いは偶然ではなく、必然』があります。とにかく人と人との関係を大切にします。トラックや駅伝の大会があると選手の父母も大勢集まり、自身の子どもだけではなくチーム全体を応援し、選手たちに絶え間なく声援を送ってくださりました。あれほど父母もチームに交わるチームはどこを探してもないと思います。そして入学前は腰が引けていた同期の仲間のレベルの高さも私にとっては大きかったです。目の前に目指すべき選手がいて、気を抜けばすぐに抜かれかねない選手もいて、高い緊張感の中で競技に取り組めました。中学までは伸び伸びとやっていましたが、全国を目指すレベルを体験することができ、流経大柏に入ってよかったです」

高校の時、「大学は指導者が自分を見てくれるわけではなく、自分が指導者の視界に入らないとダメだよ」と菅原先生に言われたことが印象に残っている。大学はたくさんの支援があらい、その通りだなと自分も納得していた。

「中野監督はそういう意味では逆で、力がない時からコミュニケーションを積極的に取ってくださりました。そしてチャンスを平等に与えてくださり、アピールできる機会がいくつかありました。私は『帝京大』で『中野監督の元で』なければ箱根駅伝は走れなかったと痛感しています。帝京大は、同じ目線で話をしてくださるコーチ、私のためだけに時間を作ってくださるトレーナー、栄養管理、科学的に競技アドバイスをくださる方がいて環境が充実しています」。仲間にもとても恵まれた。苦しい時に寄り添ってくれたり、厳しく指摘してくれる仲間がいた。最終学年で副主将を務め、苦労したことは多かったが、同期や後輩が全面的に支えてくれた。箱根駅伝の時も不安な時に7区の福田翔さんと9区の小林大晟さんが「俺たちに挟まれているから大丈夫」と言ってくれて救われた。そこまで言ってもらっても不安な時は、付き添いを引き受けてくれた品川慧さんや給水で力水をくれた内藤一輝さん、ほかにも全員のエピソードトークが話せるくらいに恵まれた仲間を持った。「私は帝京大が大好きで、帝京大を選んだことに一切の後悔はありません」

◆今後の目標

「今後も目標は、正直まだ決まっていません。ただ、挑戦したいことを見つけ、常に挑戦している人生を送りたいです。その基準として箱根駅伝と同じくらい熱量持って挑戦できることを探しています。様々なことを体験し、やってみたいと思った気持ちに素直に従っていきたいです。大学時代に教員免許を取得したこともあり、学校の先生にも興味があります。これまで自分が経験してきて感じたことを多くの子どもたちにも経験してもらいたいという思いもあります。また、どこかで駅伝に携われたらおもしろいとも思っています」

大学卒業後は、某メーカーの営業として勤務し、仕事は大変ながらなんとかやっていけているという高島さん。今後、どのような道に進むか楽しみだ。

この記事を書いたライター

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