「準優勝原稿」

「優勝原稿」は番記者たちの夢。

それは叶わなかったが、2023年以来の「準優勝原稿」を書いた。どうかお付き合いをいただきたい。

「1ー3」という結果が突きつけるものはなかなかのものがあった。

簡単に整理できないわけではない。一応、記事の構成として、その理由を浮かない顔で記すとする。本当は書きたくないが。

「完敗」だった。

とにかく、たくさん勝ってくれた。
圧勝に逆転勝ち、超がつく大逆転。なんでもござれ。
素晴らしい舞台まで私たちを連れてきてくれた。
だから、意気揚々と渋谷区までやってきた。
感覚的には30分もかかっていなかった。
しかし、結果は誰一人として望まぬものとなった。

まだ、そのシーズンの途中だ。

「肩だけは落とすまい」

そうやって、家路を急いだ。日本語の素晴らしさ、「比喩表現」への自分なりの反抗だ。

ここで精一杯の強がりを云えば、「国立競技場でカップを掲げてしまっていたら、この素晴らしいチームの『何か』が一度終わってしまっていたかもしれない。私はまだこのチームを見ていたい。この素晴らしいチームの歩みをもっと味わいたい」。そんな思いを心のどこかに詰め込んでから踵を返し、銀座線へと向かった。

ピッチ内で起きたことはプロフェッショナルたちに任せておけばいい。

少しだけ気になったのは、私たちの「臨み方」ー。

劇的以上の歩みで手にした愛しのクラブの「檜舞台」。同じようにどんな時も愛しのクラブを支えてきたファン・サポーターにとっても「晴れ舞台」。

短い期間で貴重なチケットを入手した。いつもとは違う国内きっての大会場での1発勝負。もう嫌でも飛び込んでくる「決勝戦」や「ファイナル」、「タイトル」という言葉などが、その日へ向かう私たちの感情を掻き立てた。

かく言う私だって、ささやかながら、「何か特別なことを」とやったクチ。どこか「普段着」ではなかったと思うし、そう在れなかった。そうならざるを得ないにしても、「よそゆき」が過ぎたのかもしれない。

高まる期待に夢見る気持ち、スタンドに広がる笑顔に笑顔に笑顔。視野的には自分がマンチェスター生まれのロックスターにでもなったような錯覚を味わうことだってできるくらい、私の目の前に広がった黄色のパノラマは壮観だった。若き「コールリーダー」が振るタクトにとてつもない人々が声を揃えて大合唱。かつてないほどの「音圧」を選手たちより近くで味わえたのは少し自慢だったりもする。否定なんてするつもりなどない。

私は朝から並ばない。「チケット争奪戦」に関しては長いこと門外漢だし、横断幕に筆圧で語りかけるメッセージを送ったことはない上に、飛び跳ねてもいないし、旗も振らない。声だって枯らさない。黄色のビニールを力いっぱいに掲げ、広げ、歌い、試合前から感極まらないし、負けた試合後にキャプテンを呼び寄せて、「がんばれ。一緒にがんばろう。俺たちが最高の雰囲気を作るから」なんて言ったことはない。

そんな記者に言われたくはないだろうが、きっと何かが足りていないんだという矢印の向きが、自分たちへ向くのが「柏のゴール裏」、その真髄であり、流れている文脈であると思う。

今秋にあるサポーターズグループの男性から聞いた言葉がずっと頭にあった。後出しで、すごくカッコ悪いが。

「自分たちはまだ『タイトル』に相応しいサポーターとはいえないかもしれないと思っている」

彼はそれ以上を語らなかったが、私の中には残り続けてはいた。「だが、いったいそれは何故なんだ」という疑問と共に。

彼らを知る限り、自分たちの応援や情熱に対しての「トロフィー」なんて求めていない。遠くへも行くし、自分たちで出したゴミだってできる限りなんとかする。それよりもなによりも、愛するクラブにトロフィーを、ユニフォームにきれいな星印をまずはまた1つ増やすための後押しをしたいのだと本気で思っている人たちのトライバルだ。

また次の機会でも魂を揺さぶるような大声援がスタジアムを包むだろう。

きっと、このストーリーにもつづきはある。

まだまだ「決勝戦」は続いていくからだ。

だが、あの日以来、「じゃあ、『勝者に、タイトルに、相応しいサポーター』とはいったいなんなんだろう」と考えてしまっている自分がいる。

「感謝の気持ち」じゃない何かがあるとすれば?そんなことを投げ掛けてみるにはいい機会だった。きっと、この先に見えるものがあるのだと思う。

ただ、本当に素晴らしかった。

そんな「準決勝原稿」をここで終える。

この記事を書いたライター

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